日本文学の歴史は、普通、上代・中古・中世・近世・近代(現代をふくむ)の5つの時代に区分される。上代は、文学の発生した昔から奈良時代末まで、中古は平安時代、中世は鎌倉時代と室町時代、近世は安土・桃山時代と江戸時代、近代は明治時代以降である。
上代―口承の文学から記載の文学へ
上代の文学は長い間、口承によって歌を謡い、神話や伝説をかたるものとして、集団で育まれ(はぐくまれ)、集団の中で味わわれるものだった。
大和政権(4世紀中ごろ~7世紀末)
大陸との接触はいっそう盛んになり、大陸文化の受容も活発になる。渡来人を通じて宮廷の王族やその周辺で漢語・漢文が習得され、記録や伝達に用いられた。
万葉仮名
漢字をもちいて日本語を記載できるようになったことは、文学に大きな転換をもたらした。大陸文化の、とくに思想的・精神的な影響によって個としての自覚がめばえ、書きしるすことでみずからの心情をそのまま表現できるようになった。また、口承の過程で言葉や話が変化し、流動していったのを、記載によって固定化することができるようになったのである。
奈良時代の天平文化
平城京遷都(710)につづく奈良時代には、大陸、とくに唐文化の影響下に貴族中心の
天平文化が開花した。「古事記」「日本書紀」といった史書や「風土記」、最古の歌集「万葉集」、漢詩集「懐風藻」などが編纂されたのはこの時期にあたる。
平安遷都(794)を下限とする上代の文学は、集団の中で生まれ、広く深い基盤をもつ口承文学(→ 口承文芸)の強い影響と、漢字の使用と個の自覚によって生まれた和歌や漢詩文などの抒情詩の成熟と隆盛を特徴としているのである。
古事記 稗田阿礼(ひえだのあれ)、太安麻呂(おおのやすまろ)
日本書紀 舎人親王(とねりしんのう)
万葉集
和歌は集団による歌謡とことなり、個人の心情をあらわすもので、7世紀半ばに生まれたと考えられる。「万葉集」は、20巻に8世紀半ばまでの作品4500余首をおさめている。短歌、長歌、旋頭歌(せどうか)などの歌体があり、内容的には雑歌(ぞうか)、相聞(そうもん)、挽歌(ばんか)に大別される。歌の表記は万葉仮名による。編者は不明だが、大伴家持がかかわっていたらしい。
「万葉集」には東国(とうごく)の庶民のよんだ東歌(あずまうた)や防人歌(さきもりのうた)など、貴族だけでなくさまざまな階層の歌がおさめられている。
祝詞(のりと)と宣命(せんみょう)
祝詞は国家人民の繁栄と幸いを祈願するために神に奏するもので、「延喜式(えんぎしき)」に27編おさめられている。宣命は天皇が神の命をうけて政(まつりごと)をする
際に人民に宣(の)るもので、「続日本紀」におさめられた64編が古いものとされる。祝詞も宣命も、宣命書(せんみょうがき)といって、助詞、助動詞や用言の語尾などを表音の仮名漢字で小書する。
漢詩文隆盛の先駆け
阿倍仲麻呂、吉備真備(きびのまきび)、「懐風藻」
中古―仮名文字の発明と貴族文学
中古とは、794年(延暦13)の平安遷都以来、1192年(建久3)の鎌倉幕府の成立までの約400年間、政治史的区分にいう平安時代をいう。
平安初期の中心的学問は、文章道(もんじょうどう)といわれるものである。
9世紀半ばまでは、勅撰漢詩集のほか、史書・法典・字書・旅行記など、男子官人による漢文学が隆盛をきわめたのである。
9世紀後半には仮名文字が発明され、国風文化の時代の幕が開く。894年に菅原道真(すがわらのみちざね)の提言で遣唐使が廃止されたのは象徴的であった。
10世紀初頭には「古今和歌集」が成立し、仮名による日記文学・物語文学も生みだされていく。
女房文学の時代
藤原氏は、自家の子女を後宮におくって皇室と血縁関係をむすび、摂政・関白などの政治的実権をにぎった。
政治・文化の中心が女たちのあつまる後宮にうつったため、男女を問わずよめる和歌が漢詩文にかわってこのまれるようになった。後宮には、高い文化を維持するために才能豊かな女房たちがめしだされ、なかでも一条天皇の時代(984~1011)には、藤原道隆・道長といった大権力者の力を背景に、清少納言・紫式部・赤染衛門などが活躍し、いわゆる女房文学の時代をきずいた。
「源氏物語」以後は、王朝文学は爛熟(らんじゅく)の時代をむかえる。歌学が盛んになり、万葉の歌風が復権するなど、中世的和歌の模索がはじまる一方、「源氏物語」の影響を強くうけた後期物語はしだいに退廃し、歴史物語や説話文学といった新たなジャンルへと文学の中心がうつっていく。貴族社会をとりあげた文学から武士・庶民をも話題とする文学への移行は、中世文学への胎動となった。
漢詩文
9世紀半ばまでの「凌雲集(りょううんしゅう)」「文華秀麗集」「経国集」
空海の「性霊集(しょうりょうしゅう)」
菅原道真の「菅家文草」
六国史
「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代
実録」
『古今和歌集』
10世紀初頭には、醍醐天皇の勅命をうけた紀貫之(きのつらゆき)ら4人が、最古の勅撰和歌集「古今和歌集」を編纂する。20巻、約1100首で、四季歌と恋歌を柱とし、漢詩文の影響を強くうけて「万葉集」とはことなる新たな歌風をきずいた。掛詞(かけことば)・縁語(えんご)など言葉遊びの技法を駆使し、現実から自立した言葉の世界をつくっている。
竹取物語・伊勢物語・源氏物語
伝奇物語:「竹取物語」「宇津保物語」「落窪物語」
歌物語:和歌への説話的な関心から生じた口伝えの「歌語り」を基盤に、和歌を中心にすえた小話をあつめた歌物語が生まれた。
「伊勢物語」「大和物語」「平中物語」
「土佐日記」(紀貫之)
「蜻蛉日記(かげろうにっき)」
「源氏物語」
「枕草子」(清少納言)
「和泉式部日記(いずみしきぶにっき)
この10世紀末から11世紀初頭の一条帝の時代は、女流文学の最盛期であった。
平安後期になると、漢文体の正史への関心がうすれ、仮名で書かれた歴史物語が登場する。「栄花(えいが)物語」「大鏡」「将門紀」「陸奥話記(むつわき)」軍記物語
12世紀初めには、日本・中国・天竺(てんじく)の説話を集大成した「今昔物語集」が成立した。「今昔物語集」が傑出している点は、世俗の一般民衆たちへと関心を広げているところにあり、鎌倉説話文学隆盛の先駆となった。
和歌の領域でも中世への胎動ははじまる。
歌論
中世―多様なジャンルの展開
1185年(文治元)、平家が壇ノ浦の戦(だんのうらのたたかい)でほろび、92年、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた。11世紀後半からはじまった王朝国家の衰退は、独立した組織をもった武士による政権の誕生という新たな段階をむかえた。京都においても、上皇・摂関家・寺社などが権力・権威を分担する体制ができあがりつつあった。
武士階級の成熟、ヨーロッパ文明との接触のはじまり、市民階級の誕生
文化の担い手が幅広くなったことは、文学においてはジャンルの多様化をうながした。
軍記と説話―新しい文体の創造
平安末期から鎌倉初期にかけておこった4つの戦乱をえがいた「保元物語」「平治物語」「平家物語」「承久記」は、戦乱を直接体験したり見聞したりした人の日記・メモをもとに、僧侶や貴族など当時の知識人が原型をつくり、その後さまざまな人の手がくわわって変化していった。
軍記と説話というジャンルの出発点は平安時代にあったが、そのころの作品は漢文体または漢文訓読体によるものであった。しかし、武士階級が、のちには庶民階級が文学の享受者として登場してくる中世においては、女流文学の仮名文と男性貴族や僧侶の漢文(訓読)体を融合させた、わかりやすく、しかも表現力のある新しい文体が必要となった。漢語と和語がまじりあい、表記も漢字仮名まじりにした和漢混交文の発明は、近代における言文一致体と同じく、時代の要請によるものであった。
和歌・連歌・歌謡
和歌
「新古今和歌集」は、俊成や西行、慈円、藤原良経(よしつね)、後鳥羽院ら、平安末期、鎌倉初期に続々とあらわれた有力歌人の作品をおさめ、幽玄・艶(えん)といった言葉であらわされるような、味わい深く抒情的な歌風をしめし、中世和歌の模範となった。
連歌-近世俳諧
連歌とは、和歌の上の句と下の句を独立させ、先につくった一方の句に別の人が残りの句をつくってあわせる、という方法で作品を完成させるものである。平
歌謡-都市文化
室町後期には都市の発達にともない、民衆の歌謡「小歌(こうた)」が盛んになり、それは狂言に多くとりいれられたほか、「閑吟集」「宗安(そうあん)小歌集」などにまとめられた。
擬古物語から御伽草子(おとぎぞうし)
「源氏物語」を頂点とする王朝物語の流れは鎌倉時代にうけつがれ、過去の傑作のストーリーや登場人物を模倣した作品が多く生まれた。これを擬古物語あるいは鎌倉時代物語という。王朝文化の退廃を反映して、「とりかへばや物語」「我が身にたどる姫君」「住吉物語」などの怪奇・倒錯趣味や厭世的な雰囲気の強い作品がみられる。「
室町時代には読者の大衆化を反映して、単純なストーリーの短編が大量につくられた。これを御伽草子あるいは室町時代物語という。主流は「物くさ太郎」「一寸法師」「文正草子」など、当時の庶民の願望を反映した立身出世の物語である。
近世―出版文化と庶民文学
1603年から発足された徳川幕府
近世文学と前代の文学の最大の相違点は、中世までの文学では、作者・読者はともに貴族や武士などの支配層に限定されていたのに対し、近世文学では、被支配層の町人、
すなわち庶民が創作・享受の主体となっていることである。
文学史的転回の契機
出版文化の成立
作者層・読者層が町人まで拡大したこと
浮世草子ほかの近世小説、俳諧、狂歌などの俗文学が近世文学の主流となった。
遊里と歌舞伎小屋などの悪所と密接な関係をもち、現世肯定的な享楽性やパロディ性にとんだ庶民的な文学である。
近世文学は、18世紀半ばまでの前期は京都・大坂の上方が中心で、それ以後の後期は江戸が中心となる。前期の頂点は、西鶴や芭蕉、近松らが活躍した元禄期(1688~1704)であり、後期の頂点は、蕪村、大田南畝(おおたなんぼ)、山東京伝(さんとうきょうでん)らが出た天明期(1781~88)と、曲亭馬琴(きょくていばきん)、鶴屋南北(つるやなんぼく)、一茶などが活躍した文化・文政期(1804~29)である。
百花繚乱の近世の小説
近世の小説は仮名草子にはじまる。仮名草子とは、表記にやさしい仮名を多くもちいた本の意味で、今日の観念からすると小説らしくない啓蒙書・教訓書的なものまでふくまれる。
井原西鶴の「好色一代男」
江島基蹟(きせき)の気質物(かたぎもの)や時代物の浮世草子
読本の誕生 18世紀の半ば、中国の口語体小説である白話小説の影響をうけて読本が誕生する。俗語体の浮世草子と対照的に、読本は和漢混交の文体で書かれた知的な歴史・伝奇小説である。
上田秋成(うえだあきなり)の「雨月物語(うげつものがたり)」「春雨物語」が上方を中心とする時代の前期短編読本の秀作である。19世紀に入り、江戸を中心とする後期長編読本の傑作には曲亭馬琴の「南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)」がある。
草双紙 草双紙は、赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻などの絵入り本の総称である。もとは子供向けの本であったが、1775年(安永4)に恋川春町作の「金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)」が出版され、洒落(しゃれ)と滑稽の精神をそなえた黄表紙という大人向けの文学となった。人や社会の欠陥をことさら暴露する「うがち」や、現実の論理をはぐらかす「茶化し」が黄表紙の身上である。黄表紙の代表作には、山東京伝の「江戸生艶気樺焼」がある。
合巻(ごうかん) 寛政の改革を境に黄表紙は滑稽性を弱め、さらに19世紀に入ると、長編化してストーリー性の強い合巻となった。合巻の代表作が、柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」である。
洒落本(しゃれぼん) 洒落本は、遊里を舞台に遊女や客の生態や心理を、おもに会話文でうつす写実小説である
滑稽本 寛政期(1789~1800)以後、洒落本の滑稽を通俗化して誇張したのが滑稽本である。代表作には十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)や式亭三馬(しきていさんば)の「浮世風呂」などがある。
人情本 洒落本の遊女と客のやりとりを、ふつうの若い男女の恋愛にかえたストーリー性のある恋愛小説である。
俳諧・川柳・狂歌
俳諧 韻文に目を転じると、まず俳諧がある。俳諧は、俳諧(滑稽)の連歌の略で、五七五でよみ切る発句も重要だが、江戸時代にはあくまでも連句が主体である。中世の宗鑑、守武のあとをうけ、近世に入ると松永貞徳(まつながていとく)が出て、連歌の余興ではない独自の文学形式にまで、その地位をひきあげた。
貞門俳諧 穏和な作風
談林俳諧 新奇な題材と奇抜な表現がその特色で、西鶴も談林派の有力俳人であった。
蕉風俳諧 雅と俗をほどよく調和させ、俳諧に高い精神性をあたえたのが松尾芭蕉である。芭蕉は旅をこのみ、1689年(元禄2)の旅をつづった「おくのほそ道」をはじめ多くの紀行をのこしている。
一茶 文化・文政期には、俗語や方言を多くまじえて素朴で個性的な句をよむ一茶
が出た。
川柳 もともと俳諧の連句の稽古(けいこ)のためのものであった前句付(まえくづけ)は、18世紀に江戸に判者の柄井川柳が出て、大流行した。
狂歌 和歌(短歌)のパロディ
国学・漢学と和歌・漢詩
近世は文学研究が盛んな時代であった。和学のほうでは、契沖(けいちゅう)や荷田春満(かだのあずままろ)らが出て、従来の歌学をこえた新しい学問を開き、賀茂真淵(かものまぶち)と本居宣長(もとおりのりなが)が国学として大成した。その成果として、真淵の「万葉考」、宣長の「源氏物語玉の小櫛(たまのおぐし)」「古事記伝」がある。なお、近世の歌人には、小沢蘆庵(ろあん)、香川景樹(かがわかげき)、良寛(りょうかん)らがいる。
漢学(儒学)には、林羅山(はやしらざん)や伊藤仁斎(いとうじんざい)、荻生徂徠(おぎゅうそらい)らがいて、漢詩文にも大きな影響をあたえた。漢詩人には、服部南郭(はっとりなんかく)、菅茶山(かんちゃざん)、頼山陽(らいさんよう)らがいる。
近代―新しい文学の成立と展開
明治期以降の文学を、一般に近代文学とよぶ。西洋文学からの強い影響と、現実をありのままに描写しようとする写実主義(リアリズム)の重視などをその特色とする。
仮名垣魯文(かながきろぶん) 「安愚楽鍋(あぐらなべ)」
成島柳北(なるしまりゅうほく) 「柳橋新誌(りゅうきょうしんし)」
政治小説
近代小説への変革
坪内逍遥 日本で最初に近代文学としての小説の骨格をしめしたのが、坪内逍遥の『小説神髄』(1886)である。逍遥は、従来の読み物の絵空事(えそらごと)めいた筋立てや類型的な人物像、道徳的教訓調の内容を脱して、人間の内面を描き出すこと、社会を模写することを小説家の務めと説き、近代写実主義小説への道を開いた。
二葉亭四迷 二葉亭四迷は「小説総論」(1886)を発表し、さらに近代小説の先駆けとされる「浮雲」(1887~89)で、言文一致の文体をもちいて、近代知識青年像の写実的な造形をこころみた。
尾崎紅葉 尾崎紅葉は写実主義の手法をとりながら江戸文学から多くを吸収した。そして、紅葉を中心に、文学結社の硯友社が結成され、多くの門人を擁して文壇を風靡した。
幸田露伴 幸田露伴の小説は漢籍仏典の豊かな素養をもつことによって、人気をあつめた。「五重塔」
樋口一葉(ひぐちいちよう) 樋口一葉は西鶴調の雅俗折衷の文体をもちいて女性の生きる姿をリアルに描き、高い評価をえた。
ロマンティシズムの開花
詩歌の新しい時代 外山正一(とやままさかず)の「新体詩抄」、森鴎外の「於母影(おもかげ)」、北村透谷の「楚囚之詩」、島崎藤村の「若菜集」、与謝野鉄幹の「明星」、正岡子規の「ホトトギス」
明治末から大正期へ―自然主義と短編小説
島崎藤村や田山花袋ら、浪漫主義詩人として出発した人々が自然主義を新たな角度からとらえなおし、そこに小説家として自己表現の道を発見することによって、小説史は大きく展開する。彼らは自然主義を、社会を客観的にえがく方法というよりも、作家個人の心情や生き様をありのままにうったえようとする態度としてとらえたのである。
島崎藤村の「破戒」(1906)、田山花袋の「蒲団」(1907)、正宗白鳥(まさむねはくちょう)、徳田秋声(とくだしゅうせい)、岩野泡鳴(いわのほうめい)
夏名漱石 もっとも、告白を重んじるあまり醜悪な現実の暴露に終始しがちな自然主義に反対する文学者もあった。夏目漱石は、子規のいう写生の精神を余裕をもって対象に接する姿勢としてうけとめ、また森鴎外は、芸術的想像力の働きや作品の知的な構成を軽んじる自然主義の立場とはもともとことなった資質をもち、ともに反自然主義の立場から独自の世界を開いた。
反自然主義、浪漫主義 森鴎外、木下杢太郎、北原白秋らの創刊した「スバル」、「三田文学」の編集にあたった永井荷風、谷沢潤一郎など。
白樺派 武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)、志賀直哉ら雑誌「白樺」(1910~23)によった人々で、彼らは自然主義に対抗して明るい理想主義をとなえるところから
出発し、やがて絶対的な自我肯定や人類愛にあふれる思想をはぐくんだ
私小説 自然主義の流れをくむ雑誌「奇蹟」(1912~13)から出発した葛西善蔵(かさいぜんぞう)、広津和郎(ひろつかずお)らは、作品の題材を実生活にもとめておのれの生き様をきびしく凝視し、私小説とよばれる文学様式を確立した。
芥川竜之介の短編小説 芥川竜之介は主題の純粋化と作品の芸術的完成を獲得することに成功した。
心境小説 志賀直哉や葛西善蔵らも、流派の違いをこえて折々の心境を詩情あふれる筆致でえがきだしたが、心境小説とよばれるこの様式も、もっぱら短編として生みだされている。
詩歌 石川啄木、高村光太郎、萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)、高浜虚子(たかはまきょし)
昭和初期にいたる方法の探求
社会の不安定 第一次世界大戦後の経済恐慌、1923年の関東大震災、29年の世界大恐慌
新たな方法への探求
第1は、解体したビジョンをあえて意味づけたり統合したりせずに、断片的な感覚や心理の屈折を知的な方法意識をもって表現しようとするモダニズムの文学である。小説には雑誌「文芸時代」(1924~27)から出発して新感覚派とよばれた川端康成、横光利
一のほか、堀辰雄、梶井基次郎(かじいもとじろう)らがおり、詩には抒情を徹底して否定した萩原恭次郎や、超自然主義をとなえて雑誌「詩と詩論」(1928~33)の理論的支柱となった西脇順三郎(にしわきじゅんざぶろう)らがいる。
一方社会の混乱や矛盾の原因を、労働者階級(プロレタリアート)が資本家によって不当に搾取されていることにもとめ、資本家階級を打倒して人類解放をめざすマルクス主義の世界観をうったえるプロレタリア文学も盛んになった。
雑誌 「種蒔く人」、「文芸戦線」
代表者 蔵原惟人(くらはらこれひと)、小林多喜二(こばやしたきじ)
1930~40年代になって日中戦争、太平洋戦争がおこり、時局はますます苛酷になった。この間わずかに、石川淳、太宰治(だざいおさむ)、中島敦(なかしまあつし)らによって文学の芸術性がたもたれ、また表現方法の探求がつづけられた。
第二次世界大戦後の文学
民主主義文学 宮本百合子、蔵原惟人、中野重治など旧プロレタリア文学系の文学者たちは、雑誌「新日本文学」(1946~)を拠点として、過去の挫折の反省のうえにたって民主主義文学をとなえたが、日本共産党の内紛の影響をうけて運動が分裂するなど、その歩みは平坦ではなかった。
「近代文学」派 一方平野謙、本多秋五、荒正人(まさひと)、埴谷雄高らによる雑誌「近代文学」(1946~64)は、文学を政治から独立した存在であることを説いて民主
主義文学と対立した。「近代文学」派の活動は評論中心だったが、やがて野間宏、椎名麟三、武田泰淳、中村真一郎、三島由紀夫、安部公房などいわゆる戦後派の小説家を同人にくわえて文壇の一大勢力となった。
大衆文学 マス・メディアの急速な発展にともない、吉川英治、柴田錬三郎、司馬遼太郎、松本清張、小松左京らが登場し、時代小説、推理小説、SFなど娯楽性・物語性にとむ大衆文学をあらわした。
高度消費社会が飽和状態に達した1980年代以降、進歩や発展に価値をおく近代主義に対する疑いが顕在化し、「文学」「小説」「作家」など、これまで自明とされていた理念への不信もあらわになった。
こうした状況下にあって、泉鏡花から渋沢竜彦にいたる幻想文学の系譜や、江戸川乱歩の探偵小説など、従来の文学史では傍流においやられていた作品への強い関心が生まれ、一方では、現代日本に生きる土俗的・神話的なものを斬新な手法でとらえる中上健次や、村上春樹など新しいタイプの小説家もあらわれた。戦後派作家のあとをついで登場し、以来アクチュアルな問題に対してたえず旺盛な知的関心をしめしてきたノーベル賞作家大江健三郎は、このような現代文学の変貌をみちびいたひとりであるといえよう。
1980年代以降、純文学と大衆小説(あるいはエンターテインメント)の対立という構図はくずれ、現実と幻想がいりまじった世界をえがいて、小説という形式を根源から考えなおそうとする作品も多く書かれるようになった。既成の小説に異議を申したてる鋭い問題意識をもった作家に、村上龍、津島佑子、よしもとばなな、島田雅彦、高村薫、あるいは井上ひさしらがいる。短歌では、俵万智らが出て、新しい口語短歌への模索が
つづいている。
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